正解なんてない。だけど、自分が信じる正解はある。

進撃の巨人はやっぱ面白いですよね、2期に入ってもその勢いは止まりません。

 

リヴァイ兵長のセリフには名言が多いと言われています。

 ぼくが好きなのは・・・

 

 (女型の巨人との対戦前にリヴァイ兵長が主人公エレンにむかって言ったセリフ)

 お前と俺たちとの判断の相違は経験則に基づくものだ。
だがな、そんなもんはアテにしなくていい。

選べ・・・

自分を信じるか、俺やコイツら調査兵団組織を信じるかだ。

俺にはわからない、ずっとそうだ

自分の力を信じても
信頼に足る仲間の選択を信じても

結果は誰にも分からなかった

だから、
まぁ精々・・・悔いが残らない方を自分で選べ

 

かっこいいですよね!でもこのセリフ、ネットでは賛否両論ありました。

 

指揮官が「わからない」とか言っちゃダメだろう。とか、部下に丸投げしている。とかとか。

でもぼくはこのセリフにしっくりきましたね。テストの答案以外に正解なんてものはないと思っているからです。

 

話はちょっと変わります。

以前の会社で管理システム導入を検討する説明会に参加したことがあります。そのシステムはこれまでも取引のある大手の会社が開発したものでした。
説明会の企画側(自社のチーム)としては、このシステムの良さを知ってもらい導入を方向付けたいという意向があったのでしょう。

ぼくは実務者としてシステムに関わっていたのでいろいろな質問をぶつけました。そりゃそうです、自分が使うシステムになるのかもしれないのだから不明な点はこの場で解消しなければなりません。

質問の途中で企画側(自社の偉い人)から横やりが入りました。その質問はちょっと違うんじゃない?と。

ぼくは、あれ?と思いましたね、そんなにズレた質問はしていないはずなので。

そして察しました。会社としてもこの大手会社と円満な関係を築いておきたいのだろうと。

質問は控えた方がいいかな。とも思いましたが、実務者としてはどうにも気になるところがあります。それに曖昧な点を残していては後でもやもやすることがわかっていました。

だからぼくは質問を続けました。先方もしどろもどろし始めています。その後も身内からの横やりが激しかったことを覚えています。

結局のところ各々によって正解は違うということですね。


本当の正解なんてなくて、個人個人が思う正解だけがある。だから「悔いが残らない方を選べ」ということになるのでしょう。

上司とか偉そうな人から、いかにもこれが正解だと言わんばかりに意見されることがあるじゃないですか。それをそのまま正解だと思う必要なんてないですよ。

だってそれはあくまでその人が感じる正解だから。

 

自分が信じる正解があるのなら、それを貫こうじゃありませんか。

 

意識高い、スイスの軍事力

スイスといえば。
そう、永世中立国。社会の授業で学びましたね。

 

戦争を放棄した日本、永世中立国のスイス、この二国を似ていると感じている人もいるのではないでしょうか。しかしながら、戦争に対する考え方はまるで違います。

 

まずは永世中立国とは何かですかね。その名のとおり戦争が起きてもどの国にも加担しないということです。ですので日本のようにアメリカが駐留しているなんてこともありません。実際、200年以上戦争をしておらず、もちろん第一次世界大戦も二次も参戦していません。

 

じゃあ、戦争を仕掛けられたらどうするか??その場合は・・・

全力で戦います!!

そうなんです、スイスは武装した中立国なのです。

 

日本では忌み嫌われるであろう徴兵制も採用しており、約800万の人口にもかかわらず20万もの軍人がいます。(ちなみに日本は1億以上の人口に対して自衛隊は25万人です)
その他にも敵国が攻め込んできた場合の防衛マニュアルが配布されたり、そしてなんと、なんと自動小銃一家に一台配布されています。

まさに喧嘩上等、いつでもかかってこいや。といった感じですね。
スイスと聞くと、美しい自然をイメージする方も多いと思いますが、そこにはカモフラージュされた軍事施設がひしめいているのですよ。


他国に干渉されないようにするための力が必要ということでしょう。言いかえれば力があるから中立でいられるのです。

 

どうです?日本は平和かもしれませんが、意識は低すぎると思いませんか?
GHQ(アメリカ人)に武力を持つなと言われてからは自衛隊しか存在しません。(ちなみに自衛隊は軍隊ですらありません、法律でがんじがらめにされた部隊です。何か行動をするためには、一つ一つの許可をとる必要があります。その間にきっと侵略されてしまうでしょう)

憲法9条があるから守られているわけでもないんですよ。他国からしたら「日本は戦争を放棄しているのか、それで?うちの国はそんな法律ないけど?」なんです。

トランプ氏も日本を守るための軍事費がかさんでいると気にし始めています。自分の国は自分たちで守ってくれと言っているようなものではありませんか。

 

本当に、そろそろ考え直す時ではないでしょうか。これから生まれてくる日本人にぼくたちは日本を託していかなければなりません。仕事だって、後任ができたら大事なことはちゃんと伝えますよね。マニュアルだって渡しますよね。

とりあえず丸腰でいました。特に理由はありません。といって後世に引き継げますか?

 

となりの事くらいわかっとけ

先日、仕事でこんなやり取りがありました。

 

上司「イレギュラー業務についてA課で使っているシステムが対応しているか確認してほしい」
ぼく「承知しました。」

 

ぼくはA課に電話する。
「イレギュラー業務にシステムが対応できるか確認したいのですけど」

A課担当「そのシステムの窓口はうちの課だけど、そういったイレギュラーについてはB課に聞いてみて」

ぼくはB課に電話する。
B課担当「それうちなの?A課が窓口でしょ。もう一回A課に聞いてみてよ」

ぼくはA課に電話する。
A課担当「B課はそんなこと言ってるの?じゃあ、C課に聞いてみて」

ぼくはC課に電話する。
C課担当「たぶん対応できるんじゃないかな。悪いけどD課にも聞いてみて」

 

あ~、もう!と思いましたよ。
まさにたらい回しとはこのことでしょう。みんな同じシステムを使用しているのに、なぜか答えがでない。というか、自分の部署、自分の範疇だけで、それを超えることは知らぬ存ぜぬ。。

なんて狭い領域なのでしょう。

 

・・・と、指摘したものの、己にも言い聞かせてみるとドキッとしました。自分にも思い当たる節があるような。

 

組織において、自分の部署・領域に明確な線を引くことは必要なことでしょう。
でも、それでもさ、となりの部署のことぐらいはわかろうとしましょうよ。

 

ぼくが社会人になってはじめて教えられてのは「向こう三軒両隣は気にしてみる」でした。あながち間違ってないんじゃないかと思いました。

 

出る杭は打たれるけど・・・

上野で開催されている大英博物館展に行ってきました。(以前のブログでピルトダウン人のことを書きました)

 

その貴重な出展作品の中には、「種の起源」の自筆原稿もあります。

f:id:michimichi3232:20170416155327p:plain

種の起源」といえば、みなさんご存じダーウィンの「進化論」です。その進化というものはどのように発見されたのでしょうか。

 

1831年ダーウィンはイギリスの測量船ビーグル号で世界一周航海に出ます。その航海の途中で立ち寄ったガラパゴス諸島で進化の着想を得ることになります。

それは同じ種であっても違いがあるということ。

ゾウガメの甲羅の形が島ごとによって違っていたり、陸で生息するイグアナは顎が発達しているのに対し、水辺に生息するイグアナは爪が鋭くなっている。フィンチという鳥にはくちばしの形に様々なバリエーションがある。そうです、生息する環境によって違いがあることを発見したのです。

「進化論」の概念に自然選択説自然淘汰説)というのがあります。

同じ生物がいるとそこでは生存競争が起きます。生存するためには繁殖に有利な性質を持つ個体がより多くの子孫を残し、その性質も多くの子孫に伝えることができます。不利な性質を持った個体はもちろん少なくなっていきます。
このように適応力の差によって自然環境がふるい分けをすることから選択とか淘汰という言い方をするようですね。

 

ぼくたちからしたら「それはそうだよね」で片付く内容でしょう。
しかしこの当時において、種の起源は社会思想をもひっくり返す内容だったのです。

キリスト教徒にとって、生物は神が作ったとする概念が大前提にありました。神の存在はその名の通り神々しく神聖でしかありません。その神が生物を創造してくれているとずっと信じてきたのです。

ですので、人間はサルから進化したんですよ。と言われたところで簡単に受け入れることなんてできません。これまで信じてきたことを否定され、ましてやその神ももとはただのサルだと?もちろんキリスト教徒からは完全に拒絶されました。

こうやって様々な論争が巻き起こり、進化論が認められるまでには100年以上かかったといわれています。

 

こういった宗教界隈からの反論は当然に予想できたでしょう。弾圧もあったかもしれません。ダーウィンはどのような思いで進化論を世に打ち明けようとしたのでしょうか。

そこにはきっと真実は明らかにしなければならないという強い信念があったに違いありません。今も昔も出る杭は打たれるものです。しかし飛び出さなければ何も始まりません。思考停止が続くだけです。

 

自分の信念を曲げずに飛び出るからこそ、そこに発展はあるのではないでしょうか。

 

毎日やっていることが当たり前になるから、歪めてみる

日々続けていることは、当たり前になる。それが良いことでも悪いことであっても。言いかえるなら習慣とも言えるでしょうか。

 

ぼくは若い頃、長時間労働なんて普通だと思っていました。朝9時に出勤して帰宅するのは午前さま、さらに土日どちらかは出勤するような毎日。
そんな日々を過ごしていたからなのか、それが極々当然に感じていました。だからそんなに苦でもなかった。

人間はどんな事でも毎日やっていれば慣れるようにできているのでしょうね。

だから久しぶりに定時で帰ろうとすると、何かやり残したことはないかとそわそわしてしまう。早く帰宅することに意味のない罪悪感を覚えていました。

 

逆に今はというと、定時で帰れるように全力を尽くしています。残業をしても1時間くらい。こんな毎日を続けていたら、今度は20時、21時まで残業した時は「早く帰らなきゃ、早く帰らなきゃ」と焦り始めます。

昔は、早く帰ることに罪悪感を感じていたのに、今は早く帰らないことに罪悪感を感じる。習慣って本当におもしろいですね。一度できた習慣に反すると、良いことでも悪いことでも焦りを感じてしまいます。

 

 

思い切って定時で帰る。それを一週間だけ繰り返てみる。きっとそれだけで習慣になりますよ。

 

刑法から消された条文

刑法200条、尊属殺をご存じでしょうか。法学部に通った方や法律を勉強した方でないと、聞いたこともない言葉かもしれませんね。ぼくは大学の講義で知りました。

尊属殺、それは直系尊属を殺すことです。あってほしくないですが親殺しもそうなります。少し前までは尊属殺は重罪であり、通常の殺人罪(刑法199条)が5年以上の懲役から無期懲役、死刑とされるのに対し、尊属殺は無期懲役か死刑のどちらかでした。そう、究極の刑だったのです。

その当時、親は当然に敬うものであり、親は子供を厳しくも可愛がるものという、まったくもって根拠に欠ける性善説が前提にありました。

 

しかし、ある事件をきっかけに200条は消されることになります。

 この事件は常軌を逸していたため、当時は報道も抑制されました。ぼくは大学の講義中、正直気分が悪くなったことを覚えています。
(そういうのが苦手な方はここで読むのをやめましょう)

 

 

 A子は両親と栃木県に住んでいました。子沢山の大家族、はたから見れば幸せな家族だったでしょう。しかし、A子が14歳の時に父親に性的な暴行を受けてしまいます。近親相姦というやつです。
しかもそれは繰り返し行われました。A子は一年経ってようやく母親に打ち明けましたが、父親は刃物を出して脅迫をし、四の五の言わせない状態にさせました。

その後も暴行は収まらず、ついには実の父親の子どもをA子は産むはめになります。その父娘は事実上の夫婦状態になり、その後も子どもを何人も産ませました。A子は5度の出産と、5度の中絶を経験します。

そんな絶望の淵にいるA子にも転機が訪れます。恋人ができたのです。
結婚をすればこの境遇からやっと抜け出せるかもしれない。そんな淡い期待が膨らみました。しかし、それは最悪の始まりでした。

恋人ができたことを知った父親は怒り狂い、A子を昼夜監禁状態にし暴力はさらにエスカレートしました。

A子に残された道は一つしかありません。自由になるためには父親を殺すしかないと。そして、とうとうその時はやってきます。父親から「お前が出ていくのなら子供は始末してやるぞ」この罵声を浴びた瞬間に、父親の首を紐で絞めました。この時なぜか父親は抵抗をしなかったそうです。父親を絶命させ、A子は自首をしました。

 

 

かくして裁判が始まります。弁護を担当したのは大貫大八弁護士、無報酬で引き受けました。そこでは心神耗弱を理由に刑の免除を主張しました。

しかし二審の高裁では一転して尊属殺は合憲。実刑が言い渡されます。

そして上告。大貫大八弁護士はガンで入院し、その息子の正一が無報酬で引き継ぎました。最高裁ではとうとう尊属という概念は揺らぎ、憲法14条法の下の平等に反するとされ200条尊属殺は違憲となりました。

A子にも執行猶予がつき無事釈放となります。この時A子は34歳、遅すぎる自由でした。

 

なんと凄まじい物語なのでしょうか。思わず目をつぶりたくなる、耳を塞ぎたくなります。でもこれは現実に起きたことなのです。現実ですよ。

 

法の下で生きる以上、その法を理解するためには、知りたくないことも知らなければならないとぼくは考えています。

 

人間のダブルチェックは意味がない、ようにしなければならない

ひとつの仕事を誰のチェックもなく一人で完結させること。特に事務仕事であればそれはすごく不安なことかもしれません。

 

以前、アウトソーシングのデータ入力をしていたことがあります。
モニターに映し出された申込書を見ながら、ひたすらパンチを繰り返す。1回目の入力をエントリー、同じ内容を別の人で再度なぞるように入力することをベリファイと呼んでいました。※ベリファイには確認する・実証するという意味があります。銀行用語でいう再鑑ですね。

でも、それでもミスが起こります。
ミスをすればもちろんクライアントから対策を考えろと言われ、下手な担当者はどうするか。安直にダブルチェック・トリプルチェックを提案してしまいます。その会社も同様で、ベリファイの後にリベリファイ、リリベリファイ(語呂も悪いということで4回目入力とか言ってました)が生まれました。

そこまで厳重にやるのだからもうミスは起きない。と、その時は安心するのですが所詮は人間、何人もの目を通してもミスをする時はミスをするのです。結局間違えるところはみんな一緒なんだ、悲しかなそれが証明できました。

 

ですので、理想としては「システムだけ」または「システムと人ひとり」で完結できるようにすることだと思います。

二人の目で見ることなんて無駄なんですよ、だってそれは証明されているのだから。

 

ちょっと極端な書き方をしてしまいましたが、これだけIT化が進んだ世の中です。安易に人の目を頼らず、まずはITを駆使できないか考えましょうよ。